半生以上を長く保って過ごした髪を、肩まで短く切りました。あれほど長い髪にこだわっていたのに、その瞬間は驚くほどに恐れも緊張もなく過ぎて、今はうんと短くなった髪がとても心地よく。今の私らしい。4年前に染めることを辞め、すっかり元通りになった私の髪はそれも嬉しそう。
最近はファンデーションも週末以外つけなくなって(とはいえロサンゼルスの厳しい紫外線のため日焼け止めは忘れずに)、それでも今の方がいいと思える。
自分というものは常に進化し変化もしているから、自分に最も近づくための到着点とする「自分」のあり方に正解はないのでしょう。今の自分の波動やエネルギーレベル、そんなものに心を傾けて、そこに最も調和するように、の暮らしや装いといったそれらを整える。今をよく知るということ。その結果の現れが、今この瞬間の私。
やはりそれはエフォートレスではなく、エフォートがいる。今の状態、今の自分をよく知るという努力(effort)がいる。ただきちんとその声が聞けた時、それはエフォートレスに見える。自ずと生まれたように見える。
自然体であることと、何もしない、ということは違うもの。というのは花瓶に生けた花を見ているとよくわかります。花も努力しているし、花瓶に生けられている間はどんなに花として自然に見えても必死に美しさを保とうとしている。「美しくあろうとすること」それは花というものにとって生きる意味、使命でもあるのだと思います。何故なら、枯れ始めた花を花瓶から取り出そうと一度触れると、今までずっと持ちこたえていたかのように、瞬く間に花びらを落とすから。生きている間、「美しくある」という花の使命を自然に見えるようで全うしていたのだなと知る瞬間です。
ヨーガを毎日やっていると体が明らかに変わってくる。変えようとしなくても、自分の心と天と地、そして空間における本当のバランスを知ろうとする中で、体の各部位が本来あるべき場所に戻ってくる。そうなったとき、アーサナは自然に美しく、体も健康という本来皆が生まれ持った美しさを得る。その際、毎日マットの上に立とうという姿勢はひとつのエフォートだと言えるのかどうかは・・わかりませんが。